御宅草紙 -キングインター妄想日誌-

2015年5月14日

ベレとペレ

今年もフォルジュルネ音楽祭が嵐のように通り過ぎた。私たちは毎年、ガラス棟地下の展示場でサイン会を取り仕切っている。ヘトヘトにはなるものの、実に楽しい。世界中の演奏家とかかわり、素顔を垣間見ることができるから。

通常コンサート後のサイン会は、同じ場所なので何の問題もないが、フォルジュルネは会場とサイン会場が離れているうえ、演奏家の多くはまだ仕事が終っていないことも多く、調整がたいへんである。ゆえに分担して演奏家を連れてくることが、私たちのミッションとなっている。

私のミッションは、ピアニストのボリス・ベレゾフスキーだった。彼はフォルジュルネ音楽祭の常連で、とても人気がある。良くも悪くも典型的なロシア人で、私はピアノも人柄も大好きだ。ベレゾフスキーのピアノは音楽が大きく生命力に満ちていて、ピアノの魅力を存分に味あわせてくれる。近年は轟音や物凄いテクニックのみならず、弱音の暖かさ、美しさがとみに目立つようになった。ロシアの伝説的なピアニストだったアントン・ルビンシテインは、こんな演奏をしたのだろうと妄想してしまう。

MIR-008-KKC-5156

MIR-008/KKC-5156

彼は1969年の生まれなので40代半ばながら、どこか腕白小僧のような所があり、それが魅力で困った点だ。不誠実なのではない、細かいことを気にかけないのだ。だから約束してもヒヤヒヤだし、ちょっと目を離すといなくなる。でもあの人懐っこい笑顔を見せられると許してしまう。永遠のガキ大将で、周りは彼を慕う人でいつも賑やかだ。今回は2回もサイン会を引き受けくれたが、最後まで気が抜けない。5000席のホールAでの演目はCDもあるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番だったので、ファンの殺到は間違いなかった。

何とかサイン会場へ連れてくると、あとは彼一流のサービス精神とおおらかさで、300人以上並ぶファンひとりひとりに魅力を振りまいた。終りよければ全てよしだが、彼を連れてくる途上、何人かの知り合いとすれ違いながら、挨拶もできぬほど余裕のない顔で足早に過ぎ去ってしまった。非礼をお詫びしたい。

今回印象深かったもうひとりが、スペインのピアニスト、ルイス・フェルナンド・ペレス。写真だと気難しい老人みたいだが実はまだ36歳で、会ってみると若々しく青年然としている。

ペレスのピアノはスペイン・ピアニズムというか、からっとした音色、ギターを思わせる弾力あるリズムが独特で貴重だ。今回はスペインのピアノ曲によるリサイタルを行ったが、そこにセヴラックの「セルダーニャ」中の「リヴィアのキリスト像の前のらば引きたち」をしのばせていた。セヴラックの作品中最も感動的なわが最愛の一曲で、曲目が公表された時から、これだけは仕事を離れて聴きたいと願っていた。セヴラックはフランスの作曲家ではあるが、スペインの影響濃いラングドックの人で、アラゴン家の血をひくという。「リヴィアのキリスト像の前のらば引きたち」はラングドックの素朴な人々の敬虔な祈りを描いているが、その霊的ともいえる情念の濃さはスペイン的だ。

だから、どう考えても悪いはずがなく、聴きたさ狂おしきほどだった。半ば強引にペレスを連れてくるミッションを奪い、G409会場の外に置かれたスピーカーにかじりつくようにして演奏に聴き入った。最初のモンポウの「子供の情景」から、その詩情あふれる演奏に聴き惚れてしまった。次いで大大大好きなアルベニスの「イベリア」の「セビーリャの聖体祭」。あの複雑を極めた書法から、モーツァルトのような清明な響きを出していたのに驚かされた。

夢心地でいると、係の人が張り紙を始めた。ん…?「曲目変更のお知らせ。セヴラック:リヴィアのキリスト像の前のらば引きたち→グラナドス:嘆き、またはマハとナイチンゲール」だって!?

MIR-138

MIR-138

許せぬ、いちばん楽しみにしていたものを。確かに「嘆き、またはマハとナイチンゲール」は素晴らしかったけど、CDで聴くことができるし…

アンコールにワーグナー=リストの「イゾルデの愛の死」まで大盤振舞し、予定を大幅に遅れて終演したペレスをサイン会場へ連れていく。ペレスは長く待たせたファンへのせめてもの心尽くしか、ひとりひとりに名前を訊き、盛んに話しかけ、写真を撮ることも厭わなかった。その明るさ、魅力的な笑顔、気さくさ、過度なまでの親切はスペイン気質そのものだ。おかげでサインの列の進まぬこと、永久に終らないかと思った。でもあんなに気さくに接してもらえば、誰だってファンになってしまうだろう。

で、どうして曲目を変更したのか。
「実は来日直前にパリで風邪をひき、調子がとても悪いんだ。セヴラックの〈リヴィアのキリスト像の前のらば引きたち〉は特別な集中力と余韻が必要なのだけど、朝に弾いてみて、今日はそれが出せないと分り、変更することにした。でもセヴラックを変更して苦情が出るとは思わなかった。日本はすごい国だ、アハハハハ」と元気よく笑った。本当に具合が悪いんだろうか…

ベレゾフスキーとペレスは本当にファンを大事にし、さりげない気遣いをするのは流石だと思った。疲れているのにたいへんだ。今回サイン会に協力して下さったアーチストたちは皆さん謙虚で気さく、頭の下がる思いだった。

ところで、やっぱりペレスのセヴラックが聴きたい…お金があれば彼のセヴラック・アルバムを制作できるのに。宝くじ当たらないかなぁ…

(text by M)