ピアニスト、ジャン・チャクムルから日本のファンへのメッセージが届きました!

ジャン・チャクムルから日本の皆さんへ

世界をその鉤爪に掴んだCOVID-19の大流行により、非常に残念ですが、日本で開催予定のあった4回のコンサートは延期となってしまいました。旅行や人の移動に安全が戻ってくると同時に、大好きな懐かしの日本を再び訪問できる日を、私は待ちわびています。ふたたびお会いする日まで、皆さんには音楽とともに、生きるエネルギーを失わずにいてくださるよう、そして何より大事なことですが、健康でいてくださるよう祈っています。

リスト/シューベルト〈白鳥の歌〉は、私が子供の頃から演奏・録音することを強く願っていた曲でした。夢だった、と言ってもいいでしょう。この曲を1年にわたりコンサートツアーで演奏できたこと、それに続けて録音できたことは、今現在でさえ夢のように思えます。このアルバムが、皆さんに楽しみつつ心を動かされつつ聴いていただけるものに仕上がっていることを願っています。

今皆さんに読んでいただくこの小論は、〈白鳥の歌〉 コンサートツアーの終わりにかけて、この曲を練習すること、ステージで演奏することについての自分の考えをまとめる目的で書いたものです。この度これを日本の皆さんに日本語で読んでいただけることは、私にとって大きな幸せです。

2020年11月 
ワイマールにて ジャン・チャクムル








ジャン・チャクムル
「トランスクリプション(編曲作品)について」

少年時代にシューベルトの歌曲集を初めて聴いた時に覚えた感嘆の念を、私は決して忘れることはないでしょう。シューベルトが人声とピアノのために書いたこれらの作品を、私は定期的に何度も繰り返しては聴いています。自分にとって生涯を共にする作品になることも分かっています。シューベルトの歌曲に対して私が覚えた敬服の念は、ともに音楽を奏でる声楽家抜きに独りで演奏することはできないのだという現実に直面した時、悲しみに場所を譲ることになりました。それから何年も後にフランツ・リストがこれら歌曲作品のうち50曲ほどをピアノ用に編曲していたことを発掘した時には、喜びに舞い上がりました。このうち14曲が〈Schwanengesang(白鳥の歌)〉シリーズ全曲に当たることを発見した瞬間に、いつの日かこの編曲作品を14曲同時に演奏するという夢を膨らませ始めたのです。
 
しかし、ひとりの音楽学生がこのような作品を演奏する夢を描くということには、例えばリストのソナタを演奏するために抱く夢とは、かなり異なる疑問符がつきます。このような疑問の中で最も主要なものは、このような作品を学ぶ必要がどれだけあるのか、ということです。例えば、音楽学生がベートーヴェンのソナタを練習する必要性、あるいはラフマニノフのプレリュードを学ぶ必要性については、誰ひとり疑問を差し挟むことはありません。一方、私たちが編曲作品を学ぼうと決めた場合には、外部からの批判さえ必要としません。私たち自身が、その必要性について様々に疑念を抱いてしまうのです。ところが声楽専攻生にとっては、〈白鳥の歌〉のような作品は、切り離しえない教育の一部となっています。この14曲の歌曲の中から最低でも1~2曲を練習したことのない声楽専攻生がいるとは考えられません。
 
それなのに、問題の焦点がこの種の作品のピアノ用編曲作品になってしまうと、望むと望まざるとにかかわらず頭に浮かぶ疑問は、「どんな理由があって、オリジナル作品の作り直しを聴こうというのか?」というものになってしまいます。その上、これを行ったのがリストのような天才であるということすら、問題を易しくはしてくれません。知られているようにリストは、数多くの作品をピアノ独奏用に直接に転写しながら編曲する代わりに、既存の骨組みの上に一から作曲を行いました。口に出そうと出すまいと、対象がリストであったとしても、「シューベルトにシューベルトを教えるのか」という審問が、「編曲という芸術」の正当性を永遠に疑念の下に打ち遣ってしまうように見えるのです。
 このような状況では、頻繁に演奏され、スタンダードなレパートリーに入ることのできたわずかな編曲作品を除けば、これらの作品が私たち音楽学生の教育に特別に組み込まれることはなく、そのためにコンサートホールでこれらの作品を聴くこともほぼ叶いません。これは、かなり奇妙な状況です。というのも、これらの作品が出版された時代には大変な需要があり、頻繁に演奏されたことを私たちは知っているからです。19世紀には、コンサートプログラムのうちの決して少なくない部分が、これらの作品やこれに類する編曲作品で占められていました。

 啓蒙時代以来、私たちは知恵と知識、特に道具としての知恵に支配された世界に生きています。おそらくそのせいで、次第にエスカレートする形で機能性が価値をはかる基本的な物差しのひとつになったのです。かつては、これらの編曲作品にもひとつの機能がありました。人々に普段では頻繁に聴くことのなかった音楽へのアクセスを増やすこと、人々の暮らしに多様性をもたらすこと、メドレーやパラフレーズのような種類の音楽に見られるように、偉大な作品の最も人気が高い箇所を人々が満足いくような形で繰り返して聴けることなどです。編曲はこの意味で、コンサートホールでしか聴くことのできない作品を、それよりもっと小さな会場でも、さらに言うなら家でも、新たに作り上げることを可能にしていました。これに併せて、編曲作品には広報宣伝の機能もありました。例えばリストは、この種の編曲作品をもって出版社の要望に応えていただけでなく、同時にシューベルトの歌曲作品を社会に向けて紹介する、ないしは思い出させることも行ってもいました。現代では、これらの機能は、特にレコーディング産業の発生とともにほぼ完全に失われてしまいました。私たちがベートーヴェンの交響曲を聴こうと思った時、あるいはシューベルトの歌曲を聴こうと思った時、オーディオシステムのスイッチを入れるだけで足りるのです。さらに言えば、この過程のなかでリストの〈白鳥の歌〉は、ヴィルトゥオーゾ的パフォーマンスによって汚され中身を抜かれた外観を身につけるに至ったのです。

 オリジナルな音楽へのアクセスがこれだけ簡単だと、それ以外のものを全部、悪質な模倣だと見なすのはたやすいことです。 例を挙げるなら、「シューベルトがひとつの音階を書いたのであれば、その音階を転換して6音音階で作り直す意味は?そうしたければ、自分でそう書いたのでは?」と言われる可能性があります。あるいは「シューベルトの音楽をそんな風に変えることは、その才能やクラシック音楽のもつ究極の不可侵性に反することになりはしないか?」と問い質されることもありえます。

 ですが、私たちがつい忘れてしまいがちな点があります。これらの編曲作品が出版された時に表紙に大きく書かれた名前は、シューベルトではなくリストだったということです。つまりこれらの作品をたやすく書けて呼べる「シューベルト/リスト編曲」と名づけることは、作品の本質に反する可能性があるということです。そこに込められた期待をより正確に形にする表現は、「リスト:シューベルトの歌曲集のピアノ用編曲」となるはずです。このような編曲作品は原曲のレプリカ―複製品ではなく、本質的にそれ自体がそれぞれ一つのオリジナル作品です。出典に対し裏切りを働いているからではなく、土台とするエッセンスを新たに解釈し直しているために、内側から溢れ出てくる源に新しい要素をつけ加えているがためにユニークなのです。シューベルトが詩人たちの言葉の旋律から得たインスピレーションを、リストは作品の全体的な趣を凝縮しながらピアノで提示したのです。

この編曲作品を練習する際に私が気付いたことは、作品が抱える技術的な難しさすべては、実はリストの音楽的言語にいかに相応しいかということでした。もしリストがこの作品を最初から最後まで自分で作曲していたならば、疑いなくこのように書いていたことでしょう。このケースは、自身のモーツァルトの解釈について語ったホロヴィッツの言葉を思い起こさせます。「私は特定のスタイルに忠実であり続けながら弾いているわけではない。だが私が弾く時には、すべての音符に正しい理解のもとに形を与えているのだ」

 編曲作品の側に立って私たちが主張できる、前述の理由をも含む数々の弁護は、実をいえば、問題の核心にはあまり触れていません。リストの奇跡的な筆から生まれた音符のどれ一つをとっても、それを正当化する理由を私たちが問い質す必要は、本当のところないのです。理由は何であれ、これほどの人物が書いた音符はいずれも、私たちが人生に何よりも必要としている一片の美をもたらしてくれます。この編曲作品が無数の人々、とりわけアマチュア音楽家に「より素晴らしい世界」への扉を開き、長年にわたって、悲しみに暮れる時も幸せに満ちた時も、彼らと道を共にしてくれたということ。ひとつの芸術作品の存在にとって、これを越える肯定の必要があるでしょうか?

(トルコ〈アンダンテ〉誌2019年12月号掲載)
(トルコ語翻訳:南葉翠)




ジャン・チャクムルのディスクはこちら!
https://www.kinginternational.co.jp/artist/kana-shi/can-cakmur/

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