宇野功芳の音盤棚

unauの無能日記 ②

 あーあ、怠け者(unau)は辛い。こんな原稿書くのも面倒くさくて仕方がないんだけど......。キングインターナショナルの社長はおっかないからな。読み終ったばかりの青木やよひ著「ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究」(平凡社ライブラリー)のことでも書いてお茶をにごそうか。

 青木やよひさんはもう80歳という高齢だが、20代の頃からベートーヴェンの《不滅の恋人》への手紙の研究を始め、ほとんど全生涯を恋人の特定のために費やしたといってもよい。その努力には本当に頭が下る。

 ベートーヴェンぐらい楽聖という言葉に相応わしい人もあるまい。ぼくはモーツァルトもブルックナーも大好きだが、畏敬の気持はベートーヴェンがいちばん強い。ロマン・ロランが書いた伝記を夢中になって読んだ若い日。トスカニーニとフルトヴェングラーの《第五》を友人たちと聴き比べながら論争をした高校生時代。いずれもなつかしい思い出だ。

 ベートーヴェンの死後、彼自身が書いた宛名不明のラヴ・レターが3通、秘密の引き出しから発見された。年号はなく、「7月6日 朝」「7月6日 月曜日 夜」「おはよう 7月7日」だけ記され、その第1信は「私の天使、私のすべて、私自身よ」という熱烈な呼びかけで始まっている。そして第3信の最初に書かれた"わが不滅の恋人よ"という文章によって、《不滅の恋人への手紙》と呼ばれるようになった。

 ロマン・ロランは恋人を伯爵令嬢テレーゼ・ブルンスウィックと断定し、二人はひそかに婚約した、と書いているので、ぼくなどはすっかりその気になり、若い頃、講師をしていた高校の音楽の授業でもそのように教えていた。

 しかし、ロランは後にこれを否定し、その後は「月光の曲」を捧げたジュリエッタ説、「エリーゼのために」を捧げたテレーゼ・マルファッティ説などが入り乱れていたが、20世紀も半ばをすぎた1957年、ベートーヴェンが前記テレーゼ・ブルンスウィックの妹ヨゼフィーネに宛てた13通の恋文がファクシミリとして公表されたのである。
書かれた年代は1804年から07年末までの4年間にわたっており、俄然ヨゼフィーネ説が有力になった。彼女は1799年にダイム伯爵と結婚、4人の子供を産んだが、夫は1804年に急死、1810年、今度はシュタッケルベルク男爵と再婚した。ベートーヴェンと恋愛関係にあったのはその間ということになるが、ヨゼフィーネは男爵との間にも3人の女の子をもうけた。ショッキングなのは、1813年4月8日生まれの3女ミーナがベートーヴェンの子である、という青木やよひ説である。

 では不滅の恋人がヨゼフィーネか、といえばそうではない。恋人探索の決め手は、ラヴ・レターに書かれた「7月6日 月曜日」という日付である。
ベートーヴェンの生涯で7月7日が月曜日に当るのは1795年、1801年、1807年、1812年、1818年であり、その年の夏の彼の滞在地を調べれば年月日を特定できる。ベートーヴェンはウィーンからかなり遠い湯治場でこの手紙を書き、その宿泊地から定期的に郵便馬車が出ている湯治場Kに居る恋人に出した。ベートーヴェンは大雨によるぬかるみの中を馬車に乗ってやって来たことが手紙の内容から分る。

 青木やよひさんはベートーヴェンが手紙を書いたのはボヘミアのテプリッツであると推測、そこから程近いカールスバート(K)に出したのだという。青木さんは何度も現地に足を運び、ホテルを探し、宿帳にベートーヴェンの名前を発見、カールスバートでも恋人の名前を発見、さらに当時同地に居たゲーテの日記に、同地方が豪雨だったことが記されていたことも知った。

 まことに推理小説を読むように面白い。はたして青木さんが推測した《不滅の恋人》とは?

 ベートーヴェンが1812年9月末か10月初めに書いた日記に、「おお神よ! 私に自分に打ちかつ力をあたえたまえ。......このようにして、Aとのことはすべて崩壊にいたる......」とあるが、このAこそ恋人のイニシャルであり、その名前はアントーニア・ブレンターノ。銀行家フランツ・ブレンターノ夫人で、当時32歳(ベートーヴェンは42歳)、二人はひそかに愛し合い、イギリスに永住する約束を交わしていた。アントーニアの名前が今までまったく無視されていたのは、それだけ慎重に二人が秘密をかくし通していたからだという。そういわれればその通りだ。

 だが運命はベートーヴェンにとって、あまりにも過酷だった。ほとんど別居状態だったアントーニアと夫フランツの間には別れ話が進み、その最後の話し合いのとき(5月28日のアントーニアの誕生日)、別れの契りで子供を宿してしまった。そのことを告白されたベートーヴェンが、動転している恋人に書いたのが、例の3通の手紙であるが、ベートーヴェンの方にも思いもかけぬ事態が起こってしまったのだ。

 同じ年の6月、前記ヨゼフィーネの夫シュタッケルベルクが家出し、6人の子供たちとともにウィーンに取り残された彼女は、生活費にもこと欠いてベートーヴェンに助けを求めに行ったが、同情した彼がヨゼフィーネと一夜をともにし、できた子がミーナだったと青木さんは考えたのだ。
それは彼女の姉テレーゼが「子供に備わる神性」という言葉を使っていることからも明らかで、この事実をベートーヴェンは9月末か10月初めに知り、運命の過酷さに絶望し、次に自らを断罪し、アントーニアとのこと、いっさいをあきらめたのだという。

 なんという皮肉な現実!《Aとのことはすべて崩壊にいたる》。あまりの精神的打撃によって病気がちとなり、創作力も衰えてしまったベートーヴェン。そして数年後、見事に立ち直り、ピアノ・ソナタ「作品109」「作品110」「作品111」、歌曲集「遙かなる恋人に寄す」をはじめとして、曲の随所にアントーニアへの想いを昇華した形で封じこめたわれらがベートーヴェン。

 若しも彼が愛する人とイギリスに渡り、幸せな家庭を築いたとしたら、われわれには果たして「第九」や「ミサ・ソレムニス」や後期の弦楽四重奏曲の数々が遺されたかどうか。おそらくは作曲されなかったのではないだろうか。

unau 記

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